奈良時代とそれ以前の音楽
日本の音楽に関する最古の知見は、古代中国の文献や現代の考古学から得られます。一部の研究によると、新石器時代の遺跡や紀元前1万1000年の縄文時代の土器が発掘されています。音楽面では、その後の弥生時代(およそ紀元前300~250年)の最も重要な出土品が「銅鐸」です。日本人が中国の冶金技術を習得していた様子が伺えます。銅鐸の形状や人骨が発見された場所からは、北アジアから集団で移動してきたことが示唆されます。
古墳時代(およそ250~500年)には「大和民族」という一族に徐々に支配されていったことが明らかになっています。現在の皇室にもつながる話です。部族の長が亡くなった際に人身御供を捧げるという昔のアジアの伝統に代わって副葬品(埴輪)が使用されるようになりましたが、そこには音楽が存在していた最初期の直接的な証拠が見られます。4弦や5弦の琴を膝に置いた姿や、太鼓をスティックで演奏する姿の埴輪も見つかっています。鈴の付いた衣装を着ている像や歌い手と思われる像もあります。
琴は韓国の「カヤグム」とのつながりが見られ、特に興味深いものです。カヤグムは6世紀に(現在の韓国内陸部の南岸付近にあった)伽耶国で誕生しました。日本の神道音楽で使用される、動かせる駒のある6弦の「和琴(倭琴)」の最初のものである可能性があります。鈴は、神道の舞で使用される楽器「鉾鈴」にその姿をとどめています。古代の埴輪の膝上にある琴はその形状や、両手で抱えて開放弦を弾くという点がバンジョーに似ています。
太鼓奏者や歌い手の姿は一般的過ぎて推測が難しいですが、3世紀の中国の歴史書(「魏志」、297年)には葬儀の際に歌い踊る日本人のことが書かれています。この書は、神道の2つの特徴(「穢れ」の概念と神社参拝の際の柏手)についても説明しています。
大和民族はアイヌを北へ追いやりながら、内部の体制を固めて大陸文化とのつながりを強化しました。453年、韓国の新羅は日本の天皇の葬儀に80人の楽人を派遣したと伝えられています。6世紀には中国仏教が日本に正式に伝えられました。仏門に入った者が選抜されて中国へ送られ、儀式(音楽を伴う)の中ですべての訓練を受けました。「日本書紀」には200首の歌が収められていますが、その多くは実際の歌を元にしていると思われます。