日本でジャズが愛されるようになった経緯
秋吉敏子や上原ひろみの演奏を直接聴いたり、レコードを聴きながらコーヒーが飲める「ジャズ喫茶」へ行ったことはあるでしょうか? あるいは村上春樹のどの作品でもいいので、読んだことはあるでしょうか? そんな方は、ここ日本でジャズが愛されていることを実感できるでしょう。
今年の国際ジャズデー(UNESCOとセロニアス・モンク・インスティチュート・オブ・ジャズが年に一度開催する音楽的な交流の日)のグローバルコンサートは本日、伝統的なジャズの都である大阪で開かれました。
そもそも、ジャズはどうやって日本に入ってきたのでしょう?第二次世界大戦で米国と戦ったこの島国がアメリカの黒人の音楽を楽しむようになった経緯は?日本におけるジャズの歴史は、ジャズには「平和の使者」としての役割があるというUNESCOのメッセージを体現しているのでしょうか?
1910年代には太平洋を横断する豪華客船がたくさんあり、米国人や日本人が西海岸から日本や上海、マニラなどへ航海していました。客船には通常、オーケストラが乗っていました。サンフランシスコやシアトルなどの都市に着くと、演奏家たちは街に繰り出して楽譜を買い求めました。また、フォックストロットの曲や当時人気だった曲もたくさん覚えました。
彼らは音源も買い求めました。航海から帰ると、今度はホテルのロビーで演奏しました。現在「ラグタイム」「フォックストロット」「ジャズ」と呼ばれている曲を演奏していたのはこうしたミュージシャンたちでした。即興演奏はほとんどありませんでしたが、10~20年代のアメリカンジャズでは大きな問題ではありませんでした。
フィリピンのミュージシャンがジャズを学び、ホテルのほか、定期船に乗って神戸や大阪、上海などで演奏したことにも言及しておくべきでしょう(この話題を扱った書籍もあります)。フィリピンは米国の植民地だったため、人々はジャズがとても得意だったとの説もあります。一部の日本人アーティストによると、「即興演奏(アドリブ)」をしているのを見たのはフィリピンミュージシャンが初めてだったといいます。
1920年代にポピュラー音楽のレコーディング産業が勃興した際、「My Blue Heaven」や「The Sheik of Araby」などの曲が最初のヒットシングルに含まれていました。それらの曲の日本版がつくられ、翻訳された歌詞が付くこともありました。バックで演奏した楽団の中には、パイオニアと呼べるミュージシャンが含まれていました。
多くの人が「ジャズ」という言葉を初めて聞いたのは、1929年、映画「東京行進曲」にちなんだ有名な曲にその言葉が登場した時でした。歌詞の中でジャズが扱われており、人気に火が付いたのです。ダンスホールに関係のある歌詞で、英語の「flapper」や「dandy」に相当する「モダンガール」「モダンガイ」についても歌われていました。